名所・旧跡

**宮妻峡・不動滝**
鈴鹿連峰が流れ出る清流と、変化に富んだ岩石が織りなす自然の造形美、豊かな渓流。ここ宮妻峡はキャンプやハイキング、アウトドアファンには堪えられない魅力がいっぱいです。鎌ヶ岳をはじめとする鈴鹿山脈の登山口としても多くの人に親しまれています。

 

 

 

 

**冠山茶の木原**

冠山茶の木原は水沢茶の発祥地であり、その歴史は古く、平安時代の延喜年間(901~923年)に地元の飯盛山浄林寺の僧玄庵が、空海(弘法大師)に製茶の教えを受け、唐伝来の茶の木を植えて栽培したのが始まりであると伝えられています。
冠山茶の木原は、雲母峰(きららみね)の南側山裾の急斜面には、古い樹齢の原木が他の樹木に混じって存在しています。今でこそ山の中になっていますが、昔は近くに寺があり、その寺の園として栽培されていたそうです。昭和56年に市教育委員会により市史跡として指定をうけました。毎年、足見田神社にここで摘み取られた新茶が奉納されています。

 

 

**光明寺跡**

IMG_3789杉林の中、見るからに建物の跡地とわかる場所に梵字と仏の姿らしい絵が刻まれた自然石の小さな碑があります。ここが南北朝時代の元中元年(1384年)に僧円霊が将軍義満に要請し、建立された光明寺あとです。現在、東西25間(45m)、南北1町余(120m)の平坦地は茶園になっていますが、織田信長に焼き払われるまで約2世紀の間、七堂伽藍をはじめとして如堂所28院を擁して栄華を誇ってきました。跡地からは仏具、五輪塔、瓦類などが出土しています。出土した鈴(リン)は、常願寺で使用されています。

 


**寺里神明社跡**

応永28年(1421年)光明寺の守護神として山之坊に寺里五座(八王子社、加茂社、本社神明宮、天白社、土御前社)が鎮座しました。明治43年(1910年)には足見田神社に 合祀され、山之坊の旧跡は、いつの間にか崩れ、往時を偲ぶものは数少なくなっていますが、一対の席灯篭と石段があります。

 

 

 

**もみじ谷**

春には新芽の緑が美しく、秋には赤や黄色に織りなす色鮮やかな紅葉の木々は、訪れる人の目も心も和ませてくれます。この景色を愛でた歌碑が建立されているように、多くの詩歌に詠われ、今ではカメラの被写体として人々が楽しんでいます。江戸時代、菰野藩主土方公は、元禄年間から紅葉狩りをはじめ、九代藩主土方義苗が、文化6年(1809年)に「もみじ谷」と命名し、樹木保護に尽力した。その後、地元の人々の努力により、現在の景勝地となっています。

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                        **弘法井戸**

 

DSC_0983DSC_0985弘法大師(空海)が諸国巡錫た時の物語が水沢にもあります。
昔、長い間雨が降らず、水が涸れ、村人達は飲み水にも困窮していました。その時、弘法大師が飲み水を求めたところ、水が無いと断るしかなった村人の姿を不憫に思い、持っていた錫杖で地面を突きました。するとそこからこんこんと清水が湧きだし、井戸のようになったということです。村人達はたいそう喜び、大師の遺徳を讃え「弘法井戸」と呼び、今でもこの井戸の水は涸れずに湧き出ています。
 

 

 

 




 

                                                                                 **弘法杉**

一面の茶畑の中央部にこんもりと茂った一本の大きな杉の木があります。
この杉の木下で弘法大師が昼時になり、杉の枝で作った箸で昼食をとりました。
その後で箸を出水のほとりの地面に突き刺しておきました。
やがて、その箸から根がついて芽が吹き、大きな木に成長したもので、土地の人々は『弘法杉』とよんでいます。
この伝説のある弘法杉は誰も登ったこともなく、もちろん枝も切ったこともありません。
こんもりと茂った杉ではありますが、厳しい鈴鹿おろしの風に吹かれて近年東よりに傾く
気配に心ある人の発案により、杉の木の周囲を石垣で囲み、傾かないように補強をして
保全に努めています。
**薬師堂**
正応元年(1288年)4月、当地に大地震がありました。その時、不思議にも、本尊薬師如来像が大門池の南側に聳えてい槙の大木の枝の上にのっていました。土地の人が畏れ多いと、早速その如来像を下して祀ったのが、薬師供養の始まりと昔からの言い伝えられている。

その後、後亀山天皇、元中元年(1384年)足利義満に堂の建築を要請し、本郷の光明寺を建立したとき、釈迦堂、大日堂と同様に建立したが、現在の薬師寺、即ち瑠璃山妙照寺である。

 

 

 

 

 

 

**伊勢ヶ浜荻右衛門碑**

江戸時代後期の相撲界で、その名を知られた初代伊勢ヶ浜関は、宝歴13年(1763年)2月3日、青木川(現在の茶屋町)に、生まれました。 21歳で入門、名を鎌ヶ嶽と名乗り、30歳で前頭筆頭に進み、この時も伊勢ヶ浜と改めました。 41歳っで引退しましたが、技量と力量に優れ、人格円満な性格は小野川、谷風両大関が京都でおこした紛議を和解させた話は、今も言い伝えられています。

 

 

**青木川古墳群跡**

和63年(1988年)茶園の農地改良工事中に1号墳、平成2年(1990年)に2号墳が発見されました。 横穴式石室で玄室の規模は長さ5m、幅1.3mで副葬品が出土し、6世紀後半から7世紀前半の古墳時代後期のものと推定されています。 これらの古墳は現在は埋め戻され、元の茶園になっています。

 

 

 

**加治信濃守城跡**

永5年(1398年)加治信濃守は、辻瀬戸(今の常願時境内)に城を築きました。その後、天正5年(1577年)に7代続いた加治氏は滅亡しました。 現在、常願時境内の南と西に土塁が残り、堀は本堂の背後西側に灌漑用水路として残っています。

 

 

 

 

**坂田丹後守跡**

城跡は、内部川の北岸で昭和橋の北、周囲とは約10mの高い所にあります。 正安2年(1300年)国司の坂田信濃守重次が3代で滅亡しました。 その後、城郭は、滝川一益(織田信長の家臣)の兵火によって消失しました。 標高150mの台地で、既存する遺構面積は約260㎡です。

 

 

 

**足見田神社**

神明帳考証」は、足見田神社の祭神を日本武尊として、古事記に見える三重の地名起源を記して、理由としています。 日本武尊が東国蝦夷平定の帰路、この地に立ち寄り「吾が足は三重にまがり如くしていとつかれたり」と言ったことから、三重の地名がこの足見田から出たと記しています。 「勢陽五鈴遺響」は、祭神を日本武尊とすることには、従い難いとしています。 年間を通じて多くの祭事がありますが、7月31日に行われる「水まつり」は、享保5年(1720年)を創始とする、雨乞いの祈願の祭りで、その際に奉納される「お諏訪おどり」は四日市市の無形文化財に指定されています。 写真は足見田神社内にある、「御池」

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